赤い靴下を履いた日。
もの凄くバタバタした週末だった。
本当はゆっくりしたかったのだけど。
でも、やっぱり自分は時間に追われている方が良いのだろうなと思った。
きっとこんな風に時間にいろいろな事柄を詰め込んでいる方が、上手に生きてゆける。
見逃して掴みきれないまま流してしまえた方が良い感情がある。
わたしにはたくさん、きっとある。
愚痴を言い合いながらたくさん笑って。美味しいスイーツとココア。
ご馳走してくれたシチューはすごく美味しかった。
ああ、あの人が奏でたインストの中に、なぜか神殿が浮かぶものがあった。
ヨーロッパのとても古い神殿の立ち並ぶ柱の間を歩いているイメージ。
感じた時とても不思議で、本人に伝えたことがあった。
あの人は笑っていたっけ。どうだったかな。
もう憶えていないな。
そんなに遠い日ではないのに。
そうだ。
YouTubeのある動画を観て心が軽くなったよ。
どこの誰かも知らないし、その人の他の動画も観ていないけど。
もう少し力を抜いてもいいのかもしれない、力を抜こう、たまにはそうしようって。
ずうっと、ピリピリして生きていて、疲れるから。
その動画の人は、たくさんの批判があるとは思いますがって言いながらたくさんの弁解をして自分を守っていた。
わたしはいいと思ったよ。すごく。
どんなふうに生きるのかって自分で決めていい、そうではない人を否定しているわけではない。
わかってるよ。わかるよね、ね。
来週はとても寒くなるらしい。
気象予報士さんが詳しいくらいに説明していた。
寒くなる。
2020年もあと少し。
ソラリス。
新しい日々をはじめるのに必要なのは濃いめの酸素と足と、
自分以外の誰かからの揺るがない肯定だ。
わたしはいつも新しいことを始めるのが苦手で気づけば同じ場所おなじ自分のままでただ時間だけが経ってしまっているから。
そういうのもう、もういい加減変えたいから。
変えていきたい。
自分も日々も環境も。
そんな自分のそばにいてくれる人がいてよかった。
いらないものは捨てて良かった。
今日はお仕事をがんばって、ちゃんとご飯も食べて、仲良く話せて上手に過ごせた気がする。
思い出はもう思い出だ。
そうだ。
昨日はとっても楽しい時間を過ごせた。
ゆったり過ごせて癒されたし、たくさん笑わせようとしてくれるところ、ちゃんと心に染み込ませないとなって思った。
オムライスも美味しかったし映画や音楽の話も楽しかった。
12月が急いでる。
無事に2020年を終えられますように。
みんなが無事でありますように。
四重奏。
愛ってなんなんだって嫌になっておでんを食べながら泣いた。
くそうって思いながら、でもどこかで「ひとしきり泣いたら元気になれる すっきりするんだから」って冷静に頭が働いて。
嗚咽でくるしくって、でもおでんは美味しい味に出来上がっていた。
厚めに切った大根にも味がしっかり染みていて、
味を染み込ませるために入れた切れ目に、人の心も同じだと気づいておかしくなった。
おでんの大根と人の心は同じ。
おかしい。
大根のような心。
傷ついた心に降り注がれたあれこれは、そうではない心よりもたくさんものが染み込むのだ。
ひとしきり泣いたらスッキリした。
ほらね、涙は流すべき。
何かのきっかけで決壊したダムは、関係ないはずだった他のいろいろなものも流してゆくんだから。
大丈夫。大丈夫、
それから作業をして少しダンスもして、少しお話をして、終える一日。
カルテットで、
「泣きながらご飯食べたことある人は、生きていけます」
っていうセリフがある。
わたしは生きていける。
ペンタトニック。
シナモン食パンと、りんごとバナナ、甘い珈琲で始まった一日が無事に終わりそう。
みんな無事にいたかしら。
無事だといいな。
女性は女性に厳しいし、同業は同業に厳しかったりする。
それは自分はこんなに頑張っているのに、自分はちゃんとしているのにっていう気持ちがあるせいなのかもしれない。
だけど同じものを持って生まれて、同じ場所にカテゴライズされるならそんなに牙を剥かないでよって思っていた。
11月らしくないまま続いた空がやっと11月らしくなって、部屋の中が寒かった。
たぶん、
同じように同じ声色で寒いねって言える。
音楽をたくさん聴いた。
針を持って。
着信に嬉しくてとても安心したりした。
もう、いろんなことを相手に合わせて、ああきっと相手はこう思っていたんだろう、こういう考えがあったけど言えなかったんだろう、こんな風にはしたくなくても仕方がなかったんだろうって、
気持ちを汲んで、汲んで、傷ついた自分を置き去りにしたくない。
そうだね、
あんな日もあった、笑った日もあった、
だけど確かに傷ついた自分を、相手を許す理由を無理やり当てはめてまで救いたくない。
わたしは変わらずそばに居てくれる人が必要で、だいすきで、だいすき。
思惟。
朝、テレビ画面の向こうの人が「できる事を、するべき事をせずに神頼みだなんておかしいですよ。」って言っていた。
その言葉がずっと頭から離れないままの一日だった。
思考力に長けているせいで人間は他の動物よりも進化できたけれど、一番大切な事柄に関してはものすごく退化してしまったのかもしれない。
もっと、もっと簡単な、単純なことがとても難しい。
考えすぎてしまうせいでまっすぐ歩けなくて、躓かないように間違わないようにってしながらいろんなものを取りこぼす。
だからこういう時に思い出して、ああなにをしていたんだって、馬鹿みたいに幸せな夢から覚めるみたいに。そうやって、過ぎた最近。
一週間が、数ヶ月ほどに感じた。
昨夜、作って食べたしらす丼が美味しかった。
しらす丼が美味しかったって言える人がいてよかった。
今日つくったものが、つくることができてうれしかったこと、嬉しかったって言える人がいてよかった。
部屋に一人だけど、たぶん一人じゃない。
まだ寒くないけどもうすぐ冬なんだよ。
旅。
この場所があること忘れてるでしょと言われた。
そっか。忘れてると思われるのかって思った。
前回の記事が四月。
四月に書く前は一月。
一月に書く前は十月なの。
まるで長い旅をしていてたまに帰る家のようなここ。
だいたい旅先で傷ついて泣きながら帰る。
今回もそう。
何回も繰り返した帰り道、この家の扉が近くなると前は安心していたのに最近は。
最近は?安心とも違う、自分がバカみたいでしかたなくて目を閉じたくなる。
みんな元気にしているのかなぁっていつも思ってる。
元気にしているといいけど、でもやっぱりわたしはいつまでも、わたしが寂しい時はほんの少しでも寂しい気持ちでいてほしいなって思ってしまう、大切な人には。
わたしが泣いていても笑っていてね、なんてことは友人や家族にしか思えない。
悲しみだって罪と同じように一緒に背負って逃げてほしいなって思ってしまう。
シドとナンシーみたいに?中学生みたいなことを言うね、どうしたの。くるしいね。薬を飲んだ、眠れるかなぁ、
ほらもうこんなにも夕焼け。
嘘八百の八百は 江戸の町数や大阪の橋の数、8は数が多いという意味があったから。
じゃあ例えば八百が、例えではなく本当に数字の八百だった場合、人は何年生きれば嘘を八百付くんだろうと考えた。
小さな嘘から大きな嘘まで、わたしはこんなに体が大きくなる前にその数を達成していそうだった。
最近はころころと日々が過ぎてゆくな。
心に引っかかって取れない言葉は今もまだ急な突風に揺れて痛みを生むけど、
なんだろう、心に綺麗なヒビが入って自在に切り分けられるようになった。
あっちでは泣いていて、同じ時間こっちでは笑っていた。
あっちで誰かに助けられたボロボロの手は、こっちでは誰かを撫でる頼もしい手だったりして、変なのって。
でもね、それって普通だよって。
そんなのみんなそうだよって、思った。